スエードオリス
今回の主役は2020年のオードパルファン。マンダリンと黒胡椒の光から、オリスの粉と花、ベンゾインとラブダナムの甘い樹脂、スモーキーバニラを含む柔らかなスエードへ沈むモダンなパウダリーレザーです。先行する2019年のオードトワレは乾いた木と空気を重視した別解釈で、同じ名前でも質感が大きく異なります。
#440 · 2026-08-02
香水の基本情報と第一印象
Molton Brown(モルトンブラウン)のSuede Orris(スエードオリス)は、オリスの粉っぽさと柔らかな革の触感を重ねた香りです。今回の主役は2020年に追加されたオードパルファン。日本公式ではシプレに分類され、コレクション全体はセンシュアルでパウダリーなモダンフレグランスとして紹介されています。
第一印象を決めるのは、レザーの強さではありません。マンダリンの明るさに、ブラックペッパーの乾いた刺激と、オリバナムの薄い煙が重なる、光とスパイスの入口です。甘い柑橘からすぐにバニラへ飛ぶのではなく、明るさと煙のあいだに細い緊張があります。
題材は16世紀フィレンツェの香る革手袋。歴史だけを聞けば重いヴィンテージ香を思い浮かべますが、狙いはむしろ逆でした。古く見られがちなオリスに空気と光を入れ、現代的な質感へ変える。ここがスエードオリスの要です。
調香師・ブランドの背景と制作秘話
調香師はJérôme di Marino(ジェローム・ド・マリノ)。スエードオリスは、彼がモルトンブラウンのために手がけたデビューフレグランスです。公式が語る姿勢は明快で、伝統的な型を使いながら、いつも現代風に変えること。本人もオリスを「パウダリーでありながらモダン」にしたかったと話しています。
着想になったのは、フィレンツェの貴族カトリーヌ・ド・メディシスと、オリスで革手袋を香りづけする習慣です。大切なのは、歴史をそのまま再現しなかった点でしょう。古い手袋の儀礼性を、声高ではない自信へ置き換えています。黒胡椒の光、花の柔らかさ、甘い樹脂を含むスエードの近さは、そのための手段です。
モルトンブラウンは1971年、ロンドンのサウス・モルトン・ストリート58番地のヘアサロンから始まりました。共同創業者はCaroline Burstein(キャロライン・バースタイン)とMichael Collis(マイケル・コリス)。サロンの地下でヘアケア製品を手作りし、バス、ボディ、ホテルアメニティへ香りの体験を広げてきたブランドです。だからスエードオリスも香水一本で終わらず、ローションやヘアミストへ展開されました。
香りの詳細分析
トップはマンダリン、ブラックペッパー、オリバナム。マンダリンが画面の明度を上げ、ブラックペッパーが乾いた刺激を置き、オリバナムが薄い煙を敷きます。明るいのに浮つかず、光とスパイスと煙が同時に立ち上がる入口です。数分で消える爽快感ではなく、後ろにある粉と革を照らす前置きになります。
ミドルはオリス、ローズ、ジャスミンの各アブソリュート。オリスはアイリスの花弁ではなく、根茎から得られる香料です。だから花の水分だけでは説明できません。粉、乾いた根、バター、土、化粧品のような質感が重なります。ローズとジャスミンは大きな花束を作るのではなく、根の乾きへ丸みと密度を足します。先行するオードトワレより花が肉づき、中心が厚くなるのがEDPの側です。
ラストはスエード、ベンゾイン、シスタス・ラブダナム。公式が掲げる嗅覚的シグネチャーはスモーキーバニラです。ベンゾインの甘い樹脂、ラブダナムの温かな影、そして煙を含むバニラが、起毛したスエードへ重なります。ここで現れる革は、黒い革ジャケットや新車の座席のような強いレザーではありません。薄い手袋の内側や革小物に近い、肌へ沿う起毛面です。
トップ、ミドル、ラストは見分けられますが、オリスとスエードは最初から背景にいます。柑橘と胡椒の明るさが落ちるにつれ、粉と根と革が近づいてくる構造です。香りが入れ替わるというより、同じ素材へ少しずつ焦点が合っていく。明るいスパイス、丸い粉、煙を含む甘い革という三つの言葉で捉えると分かりやすくなります。
他の香水との比較・ポジショニング
Prada(プラダ)のInfusion d'Iris(インフュージョン ディリス)とは、アイリス、柑橘、木、インセンス系の透明感が共通します。プラダはより石鹸的で冷たく、革とラブダナムの影が弱い香りです。清潔なリネンのような粉を求めるならプラダ。オリスの根や肌の温度、柔らかな革まで欲しいならスエードオリスが合います。
Serge Lutens(セルジュ・ルタンス)のDaim Blond(ダンブロン)とは、スエードと粉、肌へ近いレザーが接点です。ダンブロンはアプリコットの甘酸っぱさと黄みのあるスエードが目立ち、よりフルーティ。スエードオリスEDPは黒胡椒、ベンゾイン、スモーキーバニラが加わるため、果実の甘酸っぱさより、根と樹脂の暗さが前に出ます。明るく甘酸っぱいスエードならダンブロン、粉と煙を含む甘い樹脂ならスエードオリスEDPです。
同じモルトンブラウンのDark Leather(ダークレザー)と比べると、革の厚さが違います。ダークレザーが暗い革の力を前へ出すのに対し、スエードオリスは花、粉、起毛した内側を見せるタイプです。黒くスモーキーな革や大きな拡散を求める人には、穏やかすぎるかもしれません。
市場での位置は、透明なアイリス香水と、甘く厚いスエード香水の中間です。石鹸だけでは物足りない。ただ、革の主張が強い香りも避けたい。そんな人に、粉・根・樹脂・柔らかな革の中間地点を示します。
購入ガイド・価格・おすすめ度
2026年8月時点の日本公式で、スエードオリスの香水本体は通常販売を確認できません。コレクションに残る現行品はボディローション300mlです。ただし廃盤の日付は公表されておらず、欧州の旧アウトレットや並行流通の記録もあるため、世界全体で完全に消えたと断じることはできません。香水を探すなら、在庫、価格、保管状態を購入前に確かめる必要があります。
濃度違いの確認は、希少性より先に済ませたいところです。主役の2020年EDPはブラックペッパー、ベンゾイン、シスタス・ラブダナム、スモーキーバニラで甘く厚い。先行する2019年EDTはエレミ、シダー、パチョリの乾いた木が中心で、より軽く空気があります。名前は同じでも、昼と夜ほど方向が違います。
ボトルも手がかりになりますが、過信は禁物です。2019年春の初出EDTは細身の透明ボトルと平たい銀色キャップ。同年9月に同じEDTが凹面ガラスと黒い球形キャップへ変わりました。2020年EDPは赤茶色のマーブル調の球形キャップです。黒い球形キャップでもEDTのことがあるため、最終的にはラベルの濃度名を見て選ばないと、期待した質感と逆になるでしょう。
初めてなら、まず肌で時間を置いてください。パウダーを清潔で端正と感じるか、クラシックな化粧品と感じるかで評価が分かれます。強い革を期待する人や、夏の屋外で大きく香らせたい人には向きません。香水が強すぎるなら、ボディローションで同じ香調を軽く試すのも現実的な入口です。
実際の使用感・シーン・評判
主役のEDPが分かりやすいのは、秋、冬、春の涼しい日、とくに夕方から夜です。粉、甘い樹脂、煙、柔らかな革が、低い気温で輪郭を保ちます。ホテル、観劇、夜の美術館、落ち着いた会食など、近距離で会話する場所に合わせやすいでしょう。EDPはEDTより密度と持続が増すという評価が中心ですが、公式の固定時間はありません。最初は1プッシュ以下から肌で確かめるのが無難です。
服装は、カシミヤ、ウール、マットなシャツ、スエード靴や革小物、無彩色のジャケットなど、光沢より触感のある素材が似合います。香りと服を同じ色へ揃えるというより、粉と起毛の感触をつなぐ考え方です。明るく乾いた質感が好みなら、涼しい日の昼にはEDTという選択も残ります。
好意的な声では、粉の品のよさ、柔らかな革、人と重なりにくい距離感が評価されます。反対に、時間が経つと重い、化粧品の粉に感じる、季節を選ぶという受け止めもあります。オリスやムスクは自分では順応して消えたように感じても、衣服や髪に残ることがあるようです。
真夏に使うなら量を抑えるか、ボディローションだけにするのが無理のない選択です。涼しい室内で、近くにいる人へだけ届く程度に。黒胡椒の光がゆっくりオリスの粉とスモーキーバニラのスエードへ沈む、その小さな変化が見える距離で使うと、スエードオリスの静かなモダンさが残ります。


