ミックスト エモーションズ
パンデミックの只中で生まれた、揺れ動く感情を肯定する「時代のスケッチ」とも呼べる香り。カシスの甘酸っぱさと焚き火の煙が舞う紅茶が交差し、深い内省の時間へと誘います。
#277 · 2026-02-20
香水の基本情報と第一印象
BYREDO(バイレード)から2021年に発売された「ミックスト エモーションズ」は、世界がパンデミックによる不安と内省の只中にあった時期に発表された、「時代のスケッチ」とも呼べるウッディ・アロマティックの香りです。 この作品は「It’s okay to not be okay(大丈夫じゃなくても、大丈夫)」という、揺れ動く感情をそのまま肯定する哲学的なメッセージを纏っています。 香りを一言で表すなら、「熟れた果実を焚き火の煙で包み込んだような、矛盾に満ちた静寂」。最初は突き抜けるような清涼感と甘酸っぱさがありながら、最後は温かい薪のようなウッディへと落ち着く、非常にドラマチックな展開を持つ一本です。万人受けを狙うのではなく、自分との対話を大切にするアーティスティックな感性を持つ方に静かに寄り添う作品となっています。
調香師・ブランドの背景と制作秘話
このコンセプチュアルな作品を手がけたのは、フランス・ブルゴーニュ生まれの調香師ジェローム・エピネットです。ワインのように複雑な香りの層を重ねることを得意とする彼は、バイレードのハウスパフューマー的存在として活躍しています。本作において彼は、創業者ベン・ゴーラムの抽象的な「心の叫び」を、カシスとバーチウッドという具体的な化学反応へと見事に翻訳しました。 プロバスケ選手から転身したベン・ゴーラムは、香水を「目に見えない感情の肖像画」へと変えた人物です。伝統的な香水のルールを無視したミニマリズムと、ポストモダンな物語の融合という彼の哲学が、この作品にも色濃く反映されています。通常の香水が追求する「一点の曇りもない完璧な美」へのアンチテーゼとして、広告キャンペーンでは叩きつけられて粉々になったボトルの写真が使用され、壊れた心の状態をも肯定する精神が視覚化されました。
香りの詳細分析
肌に乗せた最初の5〜15分は、ブラックカラント(カシス)とマテが弾けるようなトップノートから始まります。カシス特有の動物的とも言える鋭い甘酸っぱさが、マテの土っぽさと衝突することで、薬品や「のど飴」を思わせる特異な清涼感を生み出し、一気に意識を覚醒させ注意を香りへと惹きつけます。
15分から2時間ほど経つと、セイロンティー(紅茶)とバイオレットリーフが主役のミドルノートへと移行します。温かい紅茶の安心感の中に、バイオレットリーフの「インク感」や「金属的グリーン」が不協和音として介入。まるで焚き火の煙を纏ったようなスモーキーな紅茶(ラプサン・スーチョン)の香りが広がり、安らぎと不穏が同時に押し寄せる感覚をもたらします。フルーティーな甘さが徐々にドライな質感へと変化していくプロセスは圧巻です。
2時間以降のラストノートでは、バーチウッド(白樺)とパピルスが静かに香り立ちます。バイレードが好む焦げたタールのニュアンスではなく、白樺そのもののクリーンでドライな木目が強調され、燃え尽きた薪や古い図書館の紙を思わせる静かで乾いたウッディへと落ち着きます。カシスの甘酸っぱさとバーチウッドのスモーキーさが、最後まで奇妙なバランスで共存し続けるのが最大の特徴です。
他の香水との比較・ポジショニング
既存の「いい香り」に飽き、香りに哲学的な意味や一筋縄ではいかない個性を求める人にとって、本作は特別な位置づけとなります。 例えば同じく紅茶とウッドが織りなす深みを持つル ラボの「テ ノワール 29」と比較すると、テ ノワールがイチジクとタバコによるしっとりとした官能的な「夜の洗練」を感じさせるのに対し、ミックスト エモーションズはカシスと煙の印象が強く、冷たさと熱さが激しく入れ替わる「アシンメトリーな美」を持っています。 また、同じ調香師によるヴィルヘルム パルフュムリの「ディア ポリー」がアップルの軽快な甘さでポジティブな「愛する人との朝食」を描くのに対し、本作はより内省的でメランコリックな「自分自身との孤独な対話」を表現しており、際立った個性を持っています。
購入ガイド・おすすめ度
「ミックスト エモーションズ」は、ボディラインなどの派生アイテムを持たない点からも、バイレードの中でも特にコンセプチュアルで実験的なポジションにあることが伺えます。 香りの評価は両極端に分かれる傾向にあり、「猫の尿」のように感じる人もいれば「傑作」と称賛する人もいます。しかし、この嗅覚の踏み絵とも言える「不安定さ」こそが、自分の感性と向き合うための唯一無二の鍵となります。万人受けする無難な香水を求めている方にはおすすめできませんが、「大丈夫じゃなくても、大丈夫」というパンデミックが生んだ哲学に共鳴し、自分自身の内面を静かに見つめ直したい時の心の処方箋として、ぜひ一度手に取っていただきたい香りです。
実際の使用感・シーン・評判
全体で4〜7時間程度の持続力を持ち、服に付いた香りは翌日まで上質な紅茶の残り香として漂います。付けたてはスモーキーな煙が強く周囲に広がりますが、2時間後には肌に寄り添うプライベートなティーノートへと変化します。 冷たく澄んだ空気がスモーキーな木々の香りを美しく際立たせる晩秋から初春が最適ですが、バイオレットリーフのメタリックな質感が雨の日の憂鬱さと見事に共鳴するため、梅雨時期の使用も意外なほどおすすめです。 非常に個性的で拡散力もあるため、狭い車内や保守的なオフィスでは足首にワンプッシュ程度に留めるのが無難です。ウールやツイードの重厚なコートに忍ばせ、秋冬のギャラリー巡りやジャズクラブ、あるいは真夜中に一人で書き物をする時間など、知的な内省のシーンにこれ以上なくマッチします。


